この記事では、マクスウェルの悪魔を様々な角度から解説していきます。
本記事を読み終えたときには、マクスウェルの悪魔について、歴史背景についても科学における意義についても知ることができます。
知的好奇心旺盛な方は是非チェックしてみてください。
マクスウェルの悪魔とは
マクスウェルの悪魔(Maxwell's demon)とは、1867年ごろ、スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが提唱した思考実験で想定される架空の存在のことです。
分子の動きを観察できる架空の存在を想定すると、熱力学第二法則に反するエントロピーの減少が可能となってしまう場合があるのです。
マクスウェルの思考実験の内容
①均一な温度の気体で満たされた容器を用意する。
(温度は均一でも個々の分子の速度は決して均一ではない)
②この容器を小さな穴の空いた仕切りで2つの部分 A, B に分離する。
ここで個々の分子を見ることのできる「存在」がいてこの穴を開け閉めできるとする。
③「存在」は、素早い分子のみを A から B へ、遅い分子のみを B から A へ通り抜けさせるように、この穴を開閉するとする。
④この過程を繰り返すと「存在」は仕事をすることなしに、 A の温度を下げ、 B の温度を上げることができる。
これは熱力学第二法則と矛盾してしまいます。
マクスウェルが仮想したこの「存在」をケルヴィン(1874年)は、「Maxwell's intelligent demon」(マクスウェルの知的な悪魔)と名付けました。
解決に至る道のり
エネルギーの散逸を必要としないマクスウェルの悪魔を認めれば、永久機関が実現できることになってしまいます。
マクスウェルの悪魔は1世紀以上科学者を悩ませました。
人類がマクスウェルの悪魔の正体を見破るまでの過程をみてみましょう。
マクスウェルの悪魔の問題は
・観察により情報を得るという情報論的な概念
・統計力学ひいては熱力学
の間の関係を問う問題であり、量子論とは別の角度から物理学にとって観測とは何かという問題を提起するものでした。
情報論的なアプローチ
この問題に格闘する過程で、現在の情報科学につながる重要な知見が生み出されました。
1929年、物理学者レオ・シラードはマクスウェルのモデルを単純化して 1 分子のみを閉じ込めたシラードのエンジンと呼ばれるモデルを用い、 悪魔が同じ大きさの 2 つの部屋のどちらに分子があるかを観測するということにより、
ΔS = k ln 2 (k:ボルツマン定数)
だけのエントロピーが減少することを示しました。
この 情報量ΔS は現在 1 ビットと呼ばれています。
このことは、元々気体運動に対して構築された概念であるエントロピーと、情報を得るということの間の深いつながりを明らかにしました。
また、ボルツマン定数とは実は情報量の単位と物理学の単位を変換する比例定数であることを明らかにしました。
シラードは、熱力学第二法則より全体の系のエントロピーは減少しないので、悪魔が観測で情報を得ることが、それ以上のエントロピーの上昇を伴うだろうと結論しました。
実際1951年、レオン・ブリユアンとデニス・ガボールはそれぞれ独立に悪魔を光による観測に置き換えて物理的解析を行ない、その観測の過程で相応するエントロピーの増大が起こることを示しました。
以上より、観測にはエネルギー散逸が伴うのだという主張が、マクスウェルの悪魔に死を宣告するものだと考えられてきました。
統計力学・熱力学的なアプローチ
ところが1973年、IBM のチャールズ・ベネットは、熱力学的に可逆な観測が可能であり、こうした観測においてはブリユアンらが指摘したようなエントロピーの増大が必要ないことを示しました。
一方で1961年、同じく IBM のロルフ・ランダウアーによって、
コンピュータにおける記憶の消去が、ブリユアンの主張した観測によるエントロピーの増大と同程度のエントロピー増大を必要とする(ランダウアーの原理)
ことが示されていました。
ベネットが甦らせた問題は、このランダウアーの原理と組み合わせることによってベネット自身により解決されたのです(1982年)。
エントロピーの増大は、観測を行なったときではなく、むしろ行なった観測結果を「忘れる」ときに起こります。
悪魔が分子の速度を観測できても、観測した速度の情報を記憶する必要があるが、悪魔が繰り返し働くためには窓の開閉が終了した時点で次の分子のためにその情報の記憶は消去しなければなりません。
情報の消去は前の分子の速度が速い場合も遅い場合も同じ状態へ遷移させる必要があるので、熱力学的に非可逆な過程です。
このため悪魔の振る舞いを完全に完了させるためには、エントロピーの増大が必然となります。
現在のマクスウェルの悪魔
ベネットの「解決」は発表後多くの議論を巻き起こし、基本的には受け入れられたかにみえる現在もなおマクスウェルの悪魔に関する文献は増え続けています。
「情報消去は論理的に不可逆なので、熱力学的にも不可逆である」という議論は、沙川貴大によれば誤りです。
悪魔と第二法則の整合性を理解するために情報消去を考える必要は、そもそもないのです。
1990年代以降の非平衡統計力学の発展により、熱力学第二法則がわずかな確率で破れることと、その確率が特定されました。
初期のランダウアーの原理は特殊な状況に限られるもので、一般的には消去と測定に必要な仕事の和に対して下限が存在するということが明らかになっています。
W測定 + W消去 ≧ kBT I ≧ W出力 . (相互情報量 I )
これが Maxwell の悪魔と熱力学第二法則との整合性に関する現在の解釈です。
(2010年、鳥谷部祥一、沙川貴大らは、世界で初めて情報によって熱エネルギーが仕事に変換されることを確認したと発表した。)
現実世界に潜む悪魔
エントロピーの概念の拡張
シラードのエンジンの議論によって、我々がその状態をわかっているメモリは、我々にとって 1 ビットあたり kT ln 2 のエネルギーを持つと考えることができます。
これは我々が
・対象の状態を知っていることが秩序としてエントロピーを下げ
・知らないことがエントロピーの大きな乱雑さを表す
という日常的なエントロピーの解釈を情報の概念を通じて熱力学的なエントロピーに実際に結び付けているのです。
可逆過程
ランダウアーの原理は記憶の消去のような非可逆な計算に原理的なエントロピーの増加が伴うことを示しました。
一方、情報を失わないような可逆な計算ならば、このような散逸は必要ありません。
こうした可逆計算は調べられてきており、 量子計算においては、結果を得るための観測過程以外のすべての計算過程はこのような可逆なものである必要があります。
生命システムにおける悪魔
また記憶消去時にエントロピーが増大するので、しばらく記憶ができる存在ならば、記憶消去までの間はマクスウェルの悪魔を働かせることができる可能性を秘めています。
生命システムではこのような仕組みが有効に利用されていることが考えられていて、実際に分子の熱運動から一方向の動作を取り出すモデルがイオンポンプや分子モーターに関して提出されており、これらはこのマクスウェルの悪魔に類似しています。