なぜ私は疑うのか。
その目的を示すためにまず、”懐疑”の再定義を行いたい。
ズバリ懐疑とは「事物の関係性を俯瞰してたどること」である。
そしてその目的は、「今まで見えるはずのなかった知識の体系を築くことにより、より汎用性の高い(抽象度の高い)概念を得ること」である。
”もの”は見えない
ここでは”見る”を、「概念の内容を認識すること」と定義して用いている。
「視覚によって外見をとらえる」という一般の意味ではない。
「なぜか」と疑いを持つとき、事物を俯瞰し、周りの事物との関係性を見ている。
関係性を語らずにその”もの”を語ることが不可能であることが示すように、事物は関係性で成り立っている。
我々が認識できるのはもの相互の関係性だけなのである。
これは、底のある筒状の物体を見て、それが「花瓶」であるか、「壺」であるかは使い方によるため、誰も決められないことからも確認できる。
我々が認識できるのはもの相互の関係性だけなのである。
このことを前提において話を進めたい。
懐疑とは
そんな現実においてものを考えることは、関係性の網目をたどっていくことである。
そして、懐疑することも関係性の網目をたどることである。
両者は近い行動だが違いは明確で、それは再構築の気概の有無である。
考えるとき、人間は自分が見たい関係性、自分にとって都合の良い関係性のみをたどる傾向にあるので、既存の欠陥に気が付きにくい。見えない関係性がある。つまり、気づかぬうちに関係性の盲点ができているのである。恋人の欠点が見えないティーンネイジャーのように。
一方懐疑することは初めから関係性に疑いを持ってかかるため、関係性に対し盲点が生じにくい。
以上が考えることと懐疑することの違いである。
客観的に事物を見ているため盲点が生じにくい状態のことを俯瞰していると表現すると、
懐疑とは、「事物の関係性を俯瞰してたどること」である。
懐疑の目的
定義さえ済んでしまえば、懐疑の目的は人それぞれで良いように思う。
なぜならば、目的を一通りにしてしまうとそれこそ盲点が生じてしまい、その懐疑でなくなってしまうからだ。
あなたはあなたの目的に応じて懐疑することにより、いわゆる創造を可能にするだろう。
ここに私にとっての懐疑の目的を示しておく
「今まで見えるはずのなかった知識の体系を築くことにより、より汎用性の高い(抽象度の高い)概念を得ること」
あなたの人生がより幸せになりますように。