情報の森

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物理的プライミングと精神的プライミング

ライミングとは、先行する刺激の処理が後の刺激の処理を促進または抑制することをいいます。

つまり、遠くにある目標のために、近くにご褒美を設定することです。

 

多くの人は、物理的プライミングによって行動します。

自分の欲しいものが手に入る、自分の欲しい人を思い通りにできるなど、現実に存在しているものを目標に設定して、生きています。

しかし、私の提唱する現実のモデル、「ピグマリオン世界モデル」を考えると、このような生き方は、正しいとは言い難いでしょう。

 

ピグマリオン世界モデルとは、簡単に言うと、この世界は、自分がこうだと考えるような世界に見えているということです。

一見不可解な考えですが、決して非現実的なものではありません。

 

プラシーボ効果をご存じでしょうか。

病気が治る薬だと思って単なるビタミン剤を飲むと、病気が治ってしまうというものです。

また、コメディや音楽の治癒効果なども有名です。

面白いコメデイを見て笑ったり、良い音楽を聴いて癒されると、本当にガンなどの病気が治ってしまうというものです。

ここで、コメディや音楽の不思議なパワーで治っていると考えると、オカルトになってしまうかもしれませんが、私たちの脳が自分で自分の体を治していると考えると、科学になりうるかもしれません。

それほどに、人の思う力というものは強力なのです。

笑ったり、楽しんだりすることで、脳がもっと生きたいと思う気持ち、自分は大丈夫だと思う気持ちが、脳内物質を分泌し、病気を治していると考えるのです。

 

このように考えていくと、私たちにとって重要なものは、お金や、ものなどの物質的なものではありません。

 

いかにして、自分が生きていたいと思うか、つまり、自分が誇りをもって元気に生きるためのストーリーや、胸を張って生きていけるための大義名分のようなもの、つまり精神的なプライミングが重要となるのです。

 

そのことに気が付いたあなたはどのように生きるのでしょうか。

 

皆さんが、過去ではなく未来を見据え、宇宙すべてのことを考え、胸を張って誇り高く今日を生きていくことを切に願います。

理の外側の行き方

世の中には様々なシステムが、言語として作られている。
このような人間がすごい。
このような人間が偉い。
このような人間になるべきだ。
これらは言語で作られていて、人はこれらのシステムを言語により学ぶ。
しかし、このように思ったことはないだろうか。
こんなシステムは嫌だ。
もっと違うシステムはないだろうか。
そのように考える人々のために、この稿ではシステムの外側へと行く方法を伝授する。

疑問をもつ

まず、疑問を持つことで、一つ上の次元から現状を考える。

次元が上がると、複雑だった物事を体系的に見ることができる。

 

まず、なぜ苦しいのか。

それは、現実の世界で何か自分に都合がよくないことがおきているから。

では、なぜ、現実は存在するのか。

実は、現実は存在していない。

というよりは、存在しているともしていないともいえる。

蕾を分解しても花は見えないように、人の脳を分解しても心は見えない。

この世界は空である。
存在しているともしていないとも言える。
物理空間の刺激は情報であり、脳内の思考も情報なので、臨場感、つまりホメオスタシスのフィードバック強度の差でしかなく、臨場感空間がその人にとっての宇宙となる。
そして、その臨場感空間のRASや思考方法などをまとめてシステムと呼ぶと、この世界はシステム同士のなわばり争いであり、より強固なシステムを作った者がこのナワバリ争いで有利と言える。
この主観はシステムであり、個人ではない。
システムは一般に哲学や思想、宗教と呼ばれる。
人生で重要なものを決める関数である自我のことと考えても良い。
現在人類の中で優勢なシステムは、資本主義利己的利益教、過去重視型差別思想、などであるが、更に強いシステムを作り、啓蒙、つまり広げることができれば、塗り替えられるかもしれない。
基本、システム作りは言語と気によって行われる。
しかし、これらもシステムの内側にあり、メタシステム的なものではない。
この、空システム論もメタシステムでありながら、システムに内包されている。

 


変性意識を使いこなす

アンカーを自分で自在に操作することが目標である。

そのために、二つのことが必要で、その二つとは、

・現実空間の臨場感を減らすための脱力

・情報空間の臨場感を高めるための瞑想

である。

 

この二つを行い、情報空間に潜むアンカーを、臨場感高く自分で操作できるようになることが目標である。

 

現実は劇場にする

アンカーを自分で操作できるようになると、現実は自由度の低い除法空間の一部となり、いささか退屈かもしれない。

そんな場合は、現実を、ルールの中で役割を果たすゲーム、あるいは自分に任された役割を演じる劇場と考える。

現実は役割を果たすための劇場なのである。


好きなことだけをすると決める

この世界で苦しまずに、周りの環境に振り回されずに生きるために推奨される行動は次の二つ。

・見返りがなくてもやりたいぐらい楽しいこと。

・全人類、全宇宙のために行うこと。

 

特に前者は、過去の価値観から抜け出して、システムの外側を行くために非常に効果的である。

解像度と臨場感の高い大量の情報体、大周天の前にはどんな権力も本能も煩悩も叶うことがない。

 

そんな自分だけの大周天を生み出すために、好きなことだけをする。

 

 

唯物という差別思考

この稿において、唯物の定義は、この世界には、物質しか存在しないという考え方のこと。

意識や魂は存在せず、あったとしてもそれらは物質の相互作用で説明できるという立場です。

そして、この唯識は差別思考となります。

なぜならば、物質は有限だからです。

土地の広さは限られています。

者や資源の数は限られています。

 

唯物の考え方では、幸せや喜びは物質によって決まります。

故に、より多く土地や資源を持ち、より優れた見た目や能力を持つものが幸せ、もしくは人間として価値があるということになります。

言い換えると、生まれてきた環境や、状態で、その人の価値が決まってしまうということです。

これは、圧倒的な差別であり、人々に喜びをもたらす考え方ではありません。

しかし、効率が相対的に良いことや、確実な成長が見込めることから資本主義では、競争原理としてこの考え方が推奨されており、現代社会で惰性で生活していれば、勝手に唯物で思考しています。

 

しかし、この考え方が利益にとっては良いが人々の心の健康にとってはあきらかに良いとは言えないでしょう。

なぜならば、この思考を原理原則とすれば、競争において一位の人間以外は完全に満たされないことになり、そしてすべての競争で一番になることは不可能です。

 

資源が多いほど良いと思えば、資源がなくて悩む。

見た目が良ければよいと思えば、見た目で悩む。

肩書が良ければよいと思えば、肩書で悩む。

 

 

このように考えればわかるように、唯物は、自分のなかで採用すればひとたび、苦しみにさいなまれることになります。

 

「利益を一番出せて、効率よく、合理的なのは、この考え方です」と小さいころから教えられ続け、「確かにそうだ」と熱心に学び続けたほど、確信度は高く、抜け出す難しさもひとしおでしょう。

 

そして、この唯物から抜け出すには、真逆の思想ともいえる唯識を学ぶのが良いでしょう。

しかし、唯識が答えなのではなく、唯物と唯識を両立させることが大切であると私は思います。

幸せの定義

「幸せ」とはなんでしょうか。

 

日常や何気ない場面でも使う言葉ですが、あなたはその意味を聞かれて、答えることができるでしょうか。

 

なんだかいい気持ちであること?

 

希望に満ちた生活を送ること?

 

wikipediaによれば、

幸福(こうふく、εὐδαιμονίαfelicitashappiness)とは、が満ち足りていること[1]幸せ(しあわせ)ともいう。

と書かれています。

 

あなたはこれらが幸せですといわれて納得できるでしょうか。

 

では幸せになるにはどうしたらよいのでしょうか。

 

そもそも「幸せとはこれだ」と決めることができるのでしょうか。

 

このブログでは、揺るがない自分だけの幸せを見つけることを目的としています。

 

しかし、「これが幸せである」とあなたに私の考えを一方的に押し付けるものではありません。

 

むしろ、そのように”絶対的”な良いものを押し付けてほしい人もいるかもしれませんが、残念ながらこのブログの趣旨はそのようなものではありません。

 

なぜならば、幸せとは自分自身だけが見つけられるものだからです。

 

本末転倒のようですが、ここはまず最初にはっきりさせる必要があります。

 

自分以外の人間に、「これが幸せですよ」と言われたものを幸せだと信じても、痛み止めにしかなりません。

 

もしそう思えたとしても、ちょっとしたきっかけで壊れてしまうもろいものです。

 

世の中には幸せの定義を勝手に押し付けてくるものがたくさんあります。

例えば、

 

お金をたくさん持っている人が幸せです。

 

見た目が美しければ幸せです。

 

誰もがうらやむ肩書を手に入れれば幸せです。

 

本当にそうでしょうか。

 

たくさんのお金を持っているにもかかわらず幸せに飢えている人もいますし、どんなに美しいといわれる見た目も永遠ではありません。

肩書も人から良いといわれているという理由で手にしたならば、心の底ではやりたくないことを人の目を気にしてやっているわけです。

 

本当に自分が納得できるようなものは、自分で見つけるしか方法がないのです。

 

そして上記のものなどを見るとわかるように、世の中にはなんらかの目的で、あなたに作られた幸せの定義を埋め込もうとする”魔物”がいます。

 

あなたが自分で自分の幸せの定義をみつけることを邪魔する存在です。

 

このブログの目的は、”魔物”の正体を明らかにして、あなたが自分の幸せを探すための障壁を取り去ることです。

 

あなたが思う以上にこの世界は壮大なのです。

 

大冒険への心の準備はできていますか?

 

このブログがあなたの無限に広がる可能性の第一歩となれば幸いです。

図形の相似条件

図形が相似とは、一方を有限回の平行移動、回転移動、対称移動により他方と重なること。

 

図形の相似条件

 

一般に図形の相似条件は、

1,対応する辺の長さの比は全て互いに等しい
2,対応する角の大きさは全て等しい

の二つ。

 

図形の頂点の数が減ると、条件は弱くなる。

弱い条件でも、1,2を満たすことができるからだ。

 

三角形固有の相似条件

二角相等 (AA):2組の角がそれぞれ等しい。

多角形の内角の和は一定より、この条件は2に等しい。

正弦定理により、すべての辺の比が等しいことがわかる(1)

 

三辺比相等 (SSS):3組の辺の比が互いに等しい。

この条件は1に等しい。

余弦定理により、すべての角度を求められる。(2)

 

二辺比夾角相等 (SAS):2組の辺の比とその間の角がそれぞれ等しい。

余弦定理により残る辺の長さが求まると、これはSSSと同じ。

 

 

四角形固有の相似条件

隣二辺三角相等:

多角形の内角の和は一定より、2に等しい。

未確定の辺と、対角線で三角形を形成、AAを適応。(1)

四辺二角相等 :

この条件は、1に等しい。

対角線を引いて、SASを適応(2)

三辺夾二角相等:

余弦定理により、すべての対角線が求まる。

正弦定理で特定した角を用い、SAS2を適応。(1、2)

優しいだけで、自分に自信が持てないあなたへ

自分に自信が持てない。

 

人を良くほめるのに、自分をほめることができない。

 

自分をほめない理由がたくさん見つかってしまう。

 

そんな人は、こう考えてください。

 

あなたと同じ境遇を持つ人は、今か、今はいなくても未来には必ずいます。

 

今のあなたをけなすと、その人たちを同時にけなすことになります。

 

それはよくありませんね。

 

あなた自身を褒めて、自信を持ってください。

 

そうすれば、たくさんの人が救われることになります。

 

あなたが、自分に自信をもって前を向いて生きてゆけば、多くの人が救われるのです。

 

しかし、同時に忘れてはいけないのは、あなたは一人ではないということです。

 

あなたはたくさんの人の一部として生きています。

 

利己的にならず、自信をもって生きて下さい。

 

そのように生きるあなたは、世界を照らすのです。

ゲームという思考実験

皆さんは、普段思考実験をしているでしょうか。

私は、思考実験こそが人間の人生を豊かにする活動であると思っている人間なのですが、放っておいて思考実験を勝手にできる人間はなかなかいません。

ですが、世の中には思考実験の練習ツールがたくさんあります。

ルールさえあればどんなものでも思考実験となります。

スポーツ、料理、パズル、ゲーム、お金稼ぎ、試験、妄想、裁判、人間関係、数学、など、挙げればきりがないほど思考実験の場はたくさんあります。

その中で、私はゲームを思考実験の場として多くの人におすすめしています。

理由は複数あるのですが、一番の理由は、私自身が好きであるということです。

他にも理由があるので、本記事では紹介していきますが、私が好きであることで、説得力をもって他人に進められると思っています。

 

ゲームの定義

私のゲームの定義は簡単です。

・破ることができないか、破るとペナルティを課される成文化されたルールがある

・行動の評価は、機械によって客観的に行われる

この二つです。

 

現代スポーツは、審判が人間なので、ゲームではありません。

パズルは、コンピュータ上のものはゲームと言えるでしょう。

小説は、ルールがないのでゲームではありません。

 

 

 

ゲームが思考実験に適している理由

現実の役に立たない

これはとても大事なことです。

なぜならば、利益を重視していては、一生他人の奴隷のままだからです。

利益とは、誰かが決めたものです。

お金でも、地位でも、名誉でも、自分で決めたものならばまだしも、ほとんどは他人が設定したものでしょう。

そういったものを目標にしている限りは、あなたは一生誰かの奴隷です。

ゲームは、作った人の世界の中だけで意味があります。

自分で作ったゲームの中なら、自分が世界を決めます。

そのゲームの中で、あなたが奴隷になることはないでしょう。

種類が多い

ゲームの定義からして、この世の中に存在するものは、すべてゲームとして作ることができます。

自分で作ることができる

ここが重要だと思っています。

コンピュータを持つ人ならば誰もが自分でゲームを作ることができるのです。

自分で作ったゲームの支配者は自分です。

その中では、あなたは本当の自由を手にすることができるのです。

寂しければ、友達をよんで一緒にゲームをすればいいでしょう。

友達が楽しいゲームを作れば、あなたが遊びに行けばいいでしょう。

そのゲームの中であなたは支配者でなく、完全に自由ではないかもしれませんが、それは奴隷ではないのです。

自分で選んでルールに縛られるのは、奴隷ではなく、遊びでしょう。

サッカーなどのスポーツで手を使うのを禁止にするのと同じことです。

不自由が楽しさを生むのですから、それは奴隷ではないのです。

証拠に、サッカーで手を使っても、注意されるだけで、あなたの人生への影響は皆無です。

これは遊びだからです。

このように、自分で作るのことのできるゲームを手にしたあなたは、本当の意味での自由を手にして、世界を楽しむことができるのです。