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唯物という差別思考

この稿において、唯物の定義は、この世界には、物質しか存在しないという考え方のこと。

意識や魂は存在せず、あったとしてもそれらは物質の相互作用で説明できるという立場です。

そして、この唯識は差別思考となります。

なぜならば、物質は有限だからです。

土地の広さは限られています。

者や資源の数は限られています。

 

唯物の考え方では、幸せや喜びは物質によって決まります。

故に、より多く土地や資源を持ち、より優れた見た目や能力を持つものが幸せ、もしくは人間として価値があるということになります。

言い換えると、生まれてきた環境や、状態で、その人の価値が決まってしまうということです。

これは、圧倒的な差別であり、人々に喜びをもたらす考え方ではありません。

しかし、効率が相対的に良いことや、確実な成長が見込めることから資本主義では、競争原理としてこの考え方が推奨されており、現代社会で惰性で生活していれば、勝手に唯物で思考しています。

 

しかし、この考え方が利益にとっては良いが人々の心の健康にとってはあきらかに良いとは言えないでしょう。

なぜならば、この思考を原理原則とすれば、競争において一位の人間以外は完全に満たされないことになり、そしてすべての競争で一番になることは不可能です。

 

資源が多いほど良いと思えば、資源がなくて悩む。

見た目が良ければよいと思えば、見た目で悩む。

肩書が良ければよいと思えば、肩書で悩む。

 

 

このように考えればわかるように、唯物は、自分のなかで採用すればひとたび、苦しみにさいなまれることになります。

 

「利益を一番出せて、効率よく、合理的なのは、この考え方です」と小さいころから教えられ続け、「確かにそうだ」と熱心に学び続けたほど、確信度は高く、抜け出す難しさもひとしおでしょう。

 

そして、この唯物から抜け出すには、真逆の思想ともいえる唯識を学ぶのが良いでしょう。

しかし、唯識が答えなのではなく、唯物と唯識を両立させることが大切であると私は思います。