なぜ生きるのか
当然、疑問を持つことは良いことであると考えられている。
確かに疑問により自己議論を進めることは深く強い知恵を得ることになると思う。
しかし一方である程度の議論・思考の保留、一時停止による見切り発射は必要だと思う。
疑問を持つことの利点
疑問を持つことで事物を俯瞰してみることができ、解決の糸口を得られる。
または、疑問に依って前提まで遡り、根本を見直すことでその後の議論はより力強いものとなるだろう。
逆に疑問を持たないとどうなるか。
疑うことがないので、周りの人間や環境の示すことを盲目的に信じてしまう。
自分はそうでないと思っている人ほど危険だ。
ヒトは過去の記憶によってしか現在を見ることはできない。自分で思考をしない人は自分の目で世界を見ていないのと同義であると考える。
言い方を悪くすれば、それは奴隷である。
人間としての権利、自由を行使できていないからである。
自分は権利自由を行使していないだけで、持っているのだからいいではないか。
しかし、そのことは自由を縛る何者かによる思想の植え付けである可能性は否定できない。
そしてこのような思考で自己議論を進めていくと、終わりはない。というより結論がわからない。
それ故、我々は自由になるために常に現状に疑問を抱き続けなければならない。
見切り発車の利点
時間は限られるため、すべての事物を納得するまで議論をすることは貴重な人生の浪費と考える方法もある。
特に、「なぜ生きるのか」「なぜこの目標か」などと考えていると、まず納得する答えを出すことは難しい。
受験制度に批判的な人にも、肯定的な人にも読んでいただきたい。
日本の大学受験制度で求めているものは、
・言語能力
・普遍的な自分哲学
ただこの二つであるということがわかった。
大学受験などという競争社会が生み出した減点方式で何の生産性もないゲームに参加する必要はないが、上記二つの能力は民主主義社会構成員として必要であると思う。
その理由を述べさせていただく。
民主主義社会で生きる私たち
民主主義構成員に求められるもの
他者とのコミュニケーションにより相手を尊重をしつつ、公共性を確保しながら自分の正義を社会に反映させようとする力
言語能力とは
正しい言葉の定義と主述関係等の文節相互関係
普遍的な自分哲学とは
公理・原理と呼ばれるもの。ただし、権威により認められるから正しいという理解でなく、自分が納得できるから正しいとして理解されるもの。
大学受験をする必要はない。ただし
生き抜く力は備えておく必要がある
以上。
・言語能力(正しい言葉の定義と主述関係等の文節相互関係)
・普遍的な自分哲学(権威主義からの脱却)
ただこの二つであるとわかった。
受験勉強自体は必要でないが、これらの体得は民主主義社会で生きる人に必要であると考えられる。
豊とは
豊かな国で豊かな生活をしているはずの人々が日々何かに追われている。
本来豊かな人はいかに貧しい人々を豊かにするかを考えるものであると考える。それが人が人である所以ではないか。
現状そうでない人々が多いのは本当に豊かでないことが原因であると考える。
競争や誤解から抜け出し、本当の意味で豊か・幸福である人々を増やすことがこのブログの目的である。
なぜ懐疑するのか
なぜ私は疑うのか。
その目的を示すためにまず、”懐疑”の再定義を行いたい。
ズバリ懐疑とは「事物の関係性を俯瞰してたどること」である。
そしてその目的は、「今まで見えるはずのなかった知識の体系を築くことにより、より汎用性の高い(抽象度の高い)概念を得ること」である。
”もの”は見えない
ここでは”見る”を、「概念の内容を認識すること」と定義して用いている。
「視覚によって外見をとらえる」という一般の意味ではない。
「なぜか」と疑いを持つとき、事物を俯瞰し、周りの事物との関係性を見ている。
関係性を語らずにその”もの”を語ることが不可能であることが示すように、事物は関係性で成り立っている。
我々が認識できるのはもの相互の関係性だけなのである。
これは、底のある筒状の物体を見て、それが「花瓶」であるか、「壺」であるかは使い方によるため、誰も決められないことからも確認できる。
我々が認識できるのはもの相互の関係性だけなのである。
このことを前提において話を進めたい。
懐疑とは
そんな現実においてものを考えることは、関係性の網目をたどっていくことである。
そして、懐疑することも関係性の網目をたどることである。
両者は近い行動だが違いは明確で、それは再構築の気概の有無である。
考えるとき、人間は自分が見たい関係性、自分にとって都合の良い関係性のみをたどる傾向にあるので、既存の欠陥に気が付きにくい。見えない関係性がある。つまり、気づかぬうちに関係性の盲点ができているのである。恋人の欠点が見えないティーンネイジャーのように。
一方懐疑することは初めから関係性に疑いを持ってかかるため、関係性に対し盲点が生じにくい。
以上が考えることと懐疑することの違いである。
客観的に事物を見ているため盲点が生じにくい状態のことを俯瞰していると表現すると、
懐疑とは、「事物の関係性を俯瞰してたどること」である。
懐疑する目的
定義さえ済んでしまえば、懐疑の目的は人それぞれで良いように思う。
なぜならば、目的を一通りにしてしまうとそれこそ盲点が生じてしまい、その懐疑でなくなってしまうからだ。
あなたはあなたの目的に応じて懐疑することにより、いわゆる創造を可能にするだろう。
ここに私にとっての懐疑の目的を示しておく
「今まで見えるはずのなかった知識の体系を築くことにより、より汎用性の高い(抽象度の高い)概念を得ること」
あなたの人生がより幸せになりますように。
人は自分の経験で世界を見ているので、そもそも完全なオリジナルはありえない。
どんなに高尚な学問・知的活動も、模倣つまり"マネ"からはじまるのだ。人類が築いてきた道をさらに開拓すると思って、胸を張ってマネしよう。
・広義の言語能力(数式等記号を含む)
・『心底好き』とリンクする目標設定
・様々な分野の体系的知識
好奇心と読書が大切である
物理学者であると同時に哲学者であるアインシュタイン。
彼はその業績で一般の人にも大いに称賛されるが、一方で彼の業績の専門性故に、一般の人は彼の発言に注目しない場合があると推測される。
彼の発言は胸に響くものが多い。
この機会に是非、専門的な物理学者としてではなく、愛すべきおじいちゃんとして彼の発言に耳を傾けていただきたい。
Albert Einstein
学び
「教育とは,学校で学んだことを忘れてしまった後に残るものである」
「自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない」
「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる
自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる」
「6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない」
実感の伴わない知識に意味はないということを感じました
「私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である」
慰め
「どうして自分を責めるんだ?他人がちゃんと責めてくれるんだから、いいじゃないか」
「一見して人生には何の意味もない
しかし一つの意味もないということはあり得ない」
哲学
「すべての宗教、芸術、科学は、同じ一つの木の枝である」
「現実は単なる幻想だが,とてもしつこい幻想だ」
「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」
「偉大な精神は常に凡庸な人々からの反発にあってきた
陳腐な先入観に盲目的に従うことを拒否し、勇気を持って正直に自分の意見を表明する人を、凡人は理解できない」
戒め
「空腹が良い指導者であることはない」
「個人の高なる運命とは,支配することというよりもむしろ奉仕することである」
「常識とは、18歳までに積み重なった、偏見の累積でしかない」
最初から1から10までを完璧にしようとしても進めない。
自分が取り急ぎ必要なことをまとめ、また必要になったら戻って細かく学ぶ。
このようにして自分の世界を広げていく。