言語は何も実際のことを表す事ができない。
例えば、目の前のリンゴを見て、リンゴがあるとする。
しかし、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、体の感覚が無くなれば、リンゴがあるとは言えなくなる。
是非、五感と記憶以外でリンゴを認識する方法を考えてもらいたい。
これは、不可能であるとわかると思う。
では、リンゴがあるとは、五感と記憶があると言うことだったのか。
何か物があるとは、変わらずにあると言うことのはずであり、変わってしまえば、あるとは言えない。
にも関わらず、川があると言った際に、その時見た水分子は流れて無いのにも関わらず、同じ川が目の前にあると思ってしまうように、人は、連続するものに、仮の名前を与えて、実際には違うものを、同じものとして扱うということを無意識にしてしまう、いわば錯覚に、常に囚われている。
同じく、五感と記憶の組み合わせ出会ったリンゴは、五感と記憶は川のように変化していくので、錯覚として、同じリンゴが見えるだけで、リンゴが存在しているとは言えない。
これを人間の無明性(何も確実に知ることができない)という。
次に、「この発言は誤りである」と言ってみる。
その時、あなたは絶対矛盾に陥る。
何故なら、上の発言が正しいなら、上の発言は誤りとなり、矛盾する。
上の発言が誤りなら、上の発言も正しいとなり、矛盾する。
これを、空性(排中律が成り立たないので、何も確実でない)という。
故に、言語を理由として行う自己肯定は、論理的には常に失敗する。
例えば、自分は◯◯だからすごい。
自分は◯◯をするのですごい。
自分は◯◯を持つのですごい。
これらは全部、自己肯定に失敗してしまう。
この原因は、人間の無明性(何も確実に知る事ができない)と、そのことによる世界の空性(何も確実でない)である。
故に、無明性と空性をもとに考えると、世界は、全ての部分に依存していて、全ての部分は、世界に依存していて、全ての部分は、他の全ての部分に依存していると言う事である。
故に、あなたの存在価値は無限である。
何故ならば、あなたがいなければ世界はなく、他の全ての部分も存在しないから。
あなたがいなくなれば世界とそこに属する全ての部分が存在しなくなるので、世界と、あなた以外の全ての部分にとって、あなたはかけがえのないものなのです。
世界は有限とすると、終わりと始まりが存在することになり、始まりがあるならば、その始まりの原因が存在することになり、その始まりの原因の原因を考えると、無限に拡張されるので、世界は無限である。
世界は無限なので、その存在を支えるあなたの価値は無限ということになる。
このように、条件付きの自己肯定は人間と言葉の不完全性によってうまくいかないので、逆にその不完全性を利用して、無条件の自己存在肯定を考えてみたのである。
本稿があなたの人生に、ひいては世界に何か影響を及ぼすことを祈る。
〈参考〉
『中論』龍樹