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会話における執着の外し方

釈尊の偉大な説法の一つに、「苦の原因は執着である」と言うものがあります。

 

自分自身、法則、過去、記憶、他人、所有物、名声、勝ち負け、などに執着するので、苦を感じる、ということです。

 

この説法が正しいと仮定すると、執着を減らすことで、苦を減らすことができるということになります。

 

我々の生活で執着が発生するのは、主に

(1)煩悩習慣

(2)言語習慣

となります。

 

(1)の煩悩習慣は単純で、日々の生活で習慣的に生じる欲望のことです。

 

例えば、美味しい物を食べたいという欲が生じれば、美味しいものを食べて快感を感じている自分に執着してしまい、それが満たされない場合、不満、嫉妬などの苦痛を感じます。

 

例えば、人に好かれたい、褒められたい、よく思われたいという欲が生じれば、人に好かれている、褒められている自分の状況に執着してしまい、不満、嫉妬、などの苦痛を感じます。

 

しかし、これらの欲が生じなければ、執着を起こすこともなく、苦痛は生じません。

 

(2)の言語習慣は、普段の言語の使い方、言語に対する理解のことです。

 

例えば、言語としてあるものが、実際に現実世界にあると思ってしまうことで、執着が生じます。

 

悩み、感情、運命、時間、記憶などは、顕微鏡で見たり、写真を撮ったりできないように、これらは現実には存在しません。

 

言語習慣として当たり前のように使い続けている故に、存在していると勘違いしてしまい、「自分の感情が好きじゃ無い」「自分は良くない運命だ」「過去を後悔している」などの、存在していないことについて考えてしまいます。

 

そもそも、「自分」というものも、存在しておらず、あるのは体という頭や手足や内臓等の集まりと名前ぐらいで、それらの集まりに「自分」と名付けているだけなのです。

 

日常会話、つまり言語習慣で使っているうちに、それらを実在すると思い、執着し、もちろん実在しないので、執着により問題が生じ、苦痛を感じます。