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「自分」という幻想

苦しみの原因は無知です。

 

そして、自分という存在しないものを存在すると思えば、矛盾故に苦しみます。

 

「そんな馬鹿な、自分は存在するぞ」と思う人も、この機会に一緒に考えてみましょう。

 

まずはあなた、つまりあなたからみて自分を、あなたの体の中に探してみましょう。

 

あなたはどこに居るでしょうか。

腕の中でしょうか。足の中でしょうか。でも、手足がなくても生きている人はいるので、違いそうですね

では、胴体でしょうか。頭でしょうか。脳でしょうか。内臓でしょうか。心臓でしょうか。

もしそうだとすると、どの部分があなたでしょうか。

残念ながら、あなたの体は、どの部分を見ても、毎日新しいものと入れ替わり続けており、「この部分があなただ」と言えるような、いわば「本体」と言える部分はありません。

 

「そんなことは信じない。」

という人は、別の方法で考えてみましょう。

植物や動物はいつか死にますが、もし仮に、彼らに「本体」と呼べるような不変の部分があるならば、死後もその部分は残り続けるはずです。

しかし、どの動植物を観察しても、そのような「本体」と呼べるような部分を死後見つけることができません。

 

本当に、「自分」というものは、探してもどこにも見つけることは出来ないのです。

 

見つけることができるのは、五感と顕在意識(心の意識できる働き)と潜在意識(記憶や反射などの、意識できない心の働き)を持つ、集合体だけです。

 

しかも、この集合体ですら、五感と顕在意識と潜在意識の集まりにすぎず、「本体」は存在しないのです。

 

これは、自転車というものは、車輪とハンドルとサドルとネジなどの部品の組み合わせで、自転車というもの自身が存在していないのと同じことです。

 

では何故、我々はこのような存在しない「自分」に皆囚われるのでしょうか。

 

これは実は我々が日頃用いる言語に原因があるのです。

 

まず、我々は、家族や会社などのグループという社会の中で、誰かを指定するために「名前」を用います。

 

または、会話の中で誰の話をしているか明らかにするために、「僕は…」「私は…」「自分は…」と、主語として、声を出している人間、つまり「自分」を指定するのです。

 

つまり、グループの中で、作業や会話を円滑に進めるために、ある意味仮定として、「名前」や「自分」として個人を設定するのです。

 

このような習慣を続けているうちに、いつのまにかその指定したものが本当に存在すると勘違いしてしまうのです。

 

では、どれだけあなたが「自分」に囚われているか考えてみましょう。

 

・夢の中の主観はあなた自身ですか

・日々の目標の主語はあなた自身ですか

例)自分の年収◯◯円にする。

例)自分が欲しい、◯◯を手に入れる。

 

両方とも答えが「はい」なら、あなたはかなり自我を信じていることになり、存在していないものに囚われる矛盾故に、苦しむ可能性が高いと言えます。

 

この囚われを減らす方法は、

・「自分」とは幻想だと確信する

・「自分」を主語とする欲望を減らす

などがあります。

 

実は、欲望は、存在しない「自分」があるという思い込みを加速させるものであり、主語を自分とする欲望に囚われるほど、「自分」があると、無根拠で確信しやすくなるのです。