情報の森

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国家幻想 自我幻想

1000年前には、少なくとも現在の意味での国家というものはなかった。

あったのは、家族の集合した集落と、その集落から王や貴族が年貢や税を徴収するためのシステムだけだ。

次第にそのシステムが巨大化していき、戦争や民族によってシステム間に境界のようなものが現れて、条約によって国境が敷かれて、法律や憲法によって国語、公用語が定められて、現在のような国家となった。

では、国家というものは、"ある"だろうか。

ニュースや新聞、歴史の本などでみんな国家について話しているので、存在はするだろう。

しかし、実在はしない。

上で見たように、実在するのは人の集まりだけで、法律や条約の文章の中で、言葉や概念として存在する国家は、実在していないのだ。

1000年前に実在どころか存在すらしていなかった国家とは、仮に名前をつけた架空の存在なので、いわば幻想とでも言えるものだ。

 

次に、私たち自身、つまり自我について考えてみる。

私たち自身は存在するだろうか。

体を見てみると、少なくとも体は存在するように見える。しかし、我々は小さな怪我をしても死ぬわけではなく、一部部を失うぐらいでは、死なない。

では、我々の本体のようなものはあるだろうか。脳内の神経だろうか。心臓の一部だろうか。

実際は、体の部品は存在するが、かけてはならない中心となるコアのようなものはないのだ。

部分が集まって、互いに影響し合う、小さなものの集まりだったのだ。

そして、自我とは、そのような小さなものの集まりを動かしているものに、仮に名前をつけたものであったのだ。

産声をあげて生まれてきた時は、そのような仮に名付けられた存在を知らない。

しかし、成長して、周りの人間と会話を続けるうちに、「私とあなた」という、実在しない仮定の存在を、受け入れる。

そして、習慣により、実在しないものを実在すると思いこんでいく。

名付けることが、生存や管理など、その必要性から、存在しなかったものを存在させて、実在すると思うほどになる。

そのような、名付けられた、実在しないものは、幻想と呼ばれるのが相応しいだろう。

 

我々自身の自我も、国家と同じような、実在しないものに仮に名付けられた、幻想だったのだ。

国家とは、幻想の集まりに名付けられた幻想だったのだ。

 

しかし、そんな幻想である国家にも自我にも、役割がある。

互いが影響し合い、干渉し合い、ダイナミックに変化していく。

もとが幻想なので、大きな変化でも起こすことができる。

ちなみに、物理学でも、究極の素粒子は、ヒモのようにも見える情報状態ということがわかっている。つまり、これも仮に名付けられた幻想だ。

幻想の集まりの幻想の集まりの幻想の集まり…。

このような関係性のネットワークが渦巻くのが、この世界、この宇宙なのだ。

 

そして、現実には存在しないことがわかったが、一つ上記の考察で無視してきた存在がある。

それは意識だ。

意識が言語に意味を与えて、言語を操る原因だった。

いわば情報とも言えるような、実在世界とは離れた存在。

ギリシャ人がイデアと呼んだものも、この情報空間、言語空間のものだった。

我々は、実在する体は、物理空間でリアルであるが、情報空間では仮に集まった幻想であり、情報としてのみ存在する意識は、物理空間では捉えられない幻想だが、情報空間では、リアルである。

 

この二つの幻想世界のバランスをとりながら、自らの役割を模索していくのが、人間という特殊な意識を、情報空間を備えた我々の指針となるのかもしれない。

 

また、接近していく見方と、俯瞰していく見方の二つも存在する。

接近していく見方は、国家から家族へと接近し、家族から個人へと接近し、個人から細胞へと、細胞から原子へと、原子からヒモ状素粒子へと接近すれば、宇宙には単体で成り立っている、それだけで成り立っている確固たる存在はないことがわかる。

俯瞰していく見方は、細胞から個人へと接近し、個人から家族、家族から国家、国家から地球、人類、人類から宇宙へとどんどんと大きな単位へと俯瞰、抽象化を続ければ、最後には、宇宙は無限の関係性の網目のネットワークで構築されていることがわかる。

 

何もないのに、沢山ある。

その二つの見方の間でバランスをとることが、国家であり、自我なのかもしれない。