情報の森

見方をかえてみる 世界をかえてみる

バークリーと波動方程式

人や観察者が見ていない量子は、空間上に確率的な波のように分布する。

見られていれば、位置が確定する。

これは、見られていない時には、場所が確定していないことを意味する。

議論を簡便にするために、この観察されていない時は位置が確定せず、煙のように存在して、観察された時のみ位置が収束し特定される極小の単位を素粒子と呼ぶことにする。

素粒子は、観察された時は、位置が確定している。

世界がある程度似ている状態で保存されているのは、地上に沢山の観察者がいるからではないだろうか。

バークリーの見方を少し変えて、存在することは知覚されることである、から、知覚されることにより、存在が確定するとなり、独我論は避けられる。

しかも、この見方では、知覚されていない世界は、存在が確定していない、確率的なものであるので、世界は決定論的世界でないことにもなる。

もちろん、ここで想定している、他者自体が知覚によって存在していることもありえて、彼らも私と同じ観察者であることを証明する実質的な方法はないが、経験からして、そのような観察者を想定して、さらに、不確定な半実体的世界を、多重可能世界的世界を想定したほうが、現実体験を上手く説明できると私は考えた。

もちろんこれで独我論懐疑論への反論が完了したわけでは全くなく、ただ実際的な利便性からの採用だが、現実を説明できることは、重要だと考えた。

独我論のように、全てが私の夢だとするには、現実の物質が固定的、恒常的すぎる。

故に、現実の、特に物質に対する説明の妥当性から、私は、半実体半錯覚的多重可能世界と、そこに住む無数の矛盾同一性を抱えた観察者というのが、世界の説明をよくできるモデルなのではないかと思う。

結局、一元論(無元論)または超多元論のようになってしまったが、まあ、世界がそのように見えるのだから、しかたないだろう。

アジアで昔から、全てが空で夢のようだと言われてきたのも頷けることだ。

しかし、独我論は世界を説明出来ているように見えて、本来説明に求められていることから逃げているように思うので、やはり超多元論的な、自分以外の存在、世界も認めつつ、やはり自分も含めた全世界は幻のようなものだと言う説明が、もっとも腑に落ちるように思うが、皆さんはどう考えるだろうか。