情報の森

見方をかえてみる 世界をかえてみる

背理法の限界:準経験的な数学

G:「命題Gは偽である」

と表現される命題Gを考える。

 

ここで、背理法を用いて命題Gを証明することを考える。

 

背理法(はいりほう、英: proof by contradiction, indirect proof)とは、ある命題 P を証明したいときに、P が偽であることを仮定して、そこから矛盾を導くことによって、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付ける証明法。

 

P の仮定で矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入と呼ばれ、 ¬P の仮定で矛盾 ⊥ が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法や、否定の除去という。否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法という。

 

背理法を使って証明される有名な定理には、√2が無理数であること、素数が無限に存在すること、中間値の定理,ハイネ・カントールの定理などがある。

 

証明)

命題Gが偽であると仮定し、矛盾を導く。

「命題Gは真である」は、命題Gが偽であることと矛盾。

よって命題Gは真である。

しかし、この場合命題Gの「命題Gは偽である」と矛盾。

よって、命題Gは背理法による証明は不能

 

上記のように背理法は、一部の自己言及命題において用いることができない。

 

実は、背理法に限らず数学においては絶対的な公理系は存在せず、したがって先験的な証明は存在しない。

このことを古典的述語論理において示したのがクルト・ゲーデルで、さらに数学一般にまで拡張したのがグレゴリー・チャイティンである。

 

古典論理では疑いなく受け入れられていたものが、現代論理ではそうとは限らない。

 

数学の立ち位置は絶対無矛盾な神学ではなく、経験認知されるべき自然科学だったのだ。

 

あるいは限界を認知しながらも超越しようと試みるような、芸術であったのだ。

 

少なくとも、無批判に証明を絶対的なものと受け入れることが可能な超学問ではもはやなくなり、ほかの学問領域同様、人の理性をもって常にその正当性を批判されうる学問となった。

 

ノイラートの言う船にのって、我々はどこまで辿り着けるのか。