情報の森

見方をかえてみる 世界をかえてみる

想いに随う

とまらずに、削除も訂正もなしで、文章を書きつずってみることにしたつづるだった間違えた。かいたもの、自分の書いたものをけさずにすべて残しておくということは、すべての記述に対して責任を持つということで、そういう点で、価値がある行いだとも思う。普段、何げなく行われる思考というのは、そういった勝手に出てしまう表現や言葉遣いに現れると思う。人の脳の働きは、無意識が過半数を占めるということを聞いたことがあり、実際自分でも実感することがよくある。自転車に乗れなかった人間が、練習していくうちに乗れるのは、無意識の学習、があったからこそであると思うのである。そんな人間において、思考といいう作業は、無意識が最もよく介入する場所だと思っている。ゆえにじぶんからぱっと出た言葉を、記録、録音することは、とても価値のあることであると思うのだ。また、いちどきりのアウトプットに記録されるという責任を持つことは、利点のほうが大きいと考えて、現在に至る。僕が今考えたいことは、編集することについてである。人は、作品を作るときに、もっと広義に表現すると、自分を表現するときに、多かれ少なかれ自分の表現物を編集する。会話の時に、自分の気持ちを純度100パーセントで表現する人はまれであろう。もっというと、自分の気持ちを言語という媒体にみんな編集して、他者に伝えているので、自分以外の生命体と交信するときに、人間は皆編集をしてるといえるだろう。そんな編集する生き物人間において、編集の過多というのは、どの程度であるべきだろうか。個人的に、過度に編集されたものというのは、その人の表現でないように思ってしまう。このままだと納得してもらえないかもしれない。例えば、ラッパーや、シンガーソングライターが、自分の境遇と全く関係のない歌を、歌詞をうたっても、聞く人には響かないはずだ。歌う人物の境遇にあっていて、つまり、編集がされすぎていなくて、発信者に近い表現であるから、聞く人の心が動かされるのだと思うのだ。そういう意味で、編集は過度ではいけない。逆に、編集が少なすぎるのもよくない。なぜなら、幼稚な表現になってしまうからだ。よく吟味されていない表現などは幼稚に聞こえる。赤子の産声はもちろん幼稚に聞こえる。また、欲望をむき出しにした表現なども幼稚に聞こえる。この今書いている文章なども、幼稚に見える人が多いだろう。一発書きの編成なしだから。以上の理由より、編集は多すぎても少なすぎてもいけないと思う。初回だからこのぐらいで終わり。