自分の同一性というものは、自分と、自分が今日出会う他人があると信じ込んでいる幻である。
脳は、ニューロンの電気信号のネットワークでできているので、その細胞が複製されたとき、元の自分はいない。
つまり、人が自分と表現するものは、子供のおままごとの役と同じもので、みんながこの人はこれと信じているから成立しているに過ぎない。
つまり、おままごとが続いている間は自分はママかもしれないが、おままごとが終われば、自分はママではなくなる。
そして、人は他人と一緒にいるとき、もしくは自分が自分を自分と信じるときのみ自分であるだけで、ひとたびその”おままごと”をみんなが止めれば、自分は自分でなくなる。
この時、自分を自分たらしめているものは、情報のネットワークにすぎず、核となる実体はない。
おままごとの場合は口約束、人生の場合は戸籍などの活字という違いでしかない。
これは、自分に限らずすべてのものでそうである。
このように考えたとき、朝起きた自分が、昨日の自分と同じであると考える理由はどこにもない。
ただ、朝起きた時に託されている役割の中で生きるというだけである。
トランプゲームで配られたカードを見て、あの時のことが原因でこのカードがきたとはならないだろう。
ただ配られたカードで精いっぱいゲームをプレイするだけだ。
同じように、人生も、今配られている状況に対して、精いっぱい生きるだけなのだ。
そして、就寝するときには自分の役割を一度失うのだ。
なぜならば、明日、起床したときに同じ役割を担えるとは限らないからだ。
何の根拠もなく、ただ、たまたまおままごとが続いていたというだけなのだ。
みんなが一斉に飽きれば、もしくは自分が止めることに決めたならば、そこでおままごとはおしまい。
また新たな別の物語がはじまるだけである。