情報の森

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大宇宙と小宇宙

人の人生には二つの軸があります。

一つは大宇宙です。

多くの人が宇宙と言う時、大宇宙のことを意味しています。

人々が生まれ、出会い、別れ、死んでいく、そんな世界が大宇宙です。

大宇宙では、多くの人がいて、それぞれが影響を与えながら、世界を冒険しています。

実験や観察を通じて、みんなに共通する現象や法則を発見できるでしょう。

それは言語などを通じて伝えられ、科学や知識体系などと呼ばれます。

これらの世界は完全に共有することは難しいとはいえ、ある程度の共有は保証されています。

我々からみると太陽は24時間周期で空に現れる、火に紙を入れると燃えて灰になる、などです。

言語を用いて表現できるので、人々はその知識を本やインターネットで手に入れることができます。

 

人の人生には、もう一つの軸があります。

小宇宙です。

「何故、私は生まれてきたのか」

「何故、私はここにいるのか」

これらの答えは、インターネットで検索しても見つかりません。

何故ならこれらの質問は、自分自身で、人生をかけて立ち向かうものだからです。

何故、小宇宙が大宇宙と並ぶほど重要なのか。

それは、小宇宙の価値がわからなければ、大宇宙の価値もわからない、つまりは生きている意味がわからない、生きる意味がないからです。

いくら大宇宙、つまり自然や世界の摂理に詳しくて、それらがいくら正しくても、あなたが毎日惨めに感じていたり、人生に不安を抱えていたりするならば、それらの大宇宙の知識に意味はあるでしょうか。

「何故、私は今日も生きるのか」

この質問にしっかりと向き合うことこそ、つまり、あなたという小宇宙について知ることこそ、あなたがこの人生を生きるための鍵なのです。

多くの人は、この小宇宙についての考察が、とても疎かになっています。

「人生に意味なんかない」

「人生は、ただ楽しむだけだ」

「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」

これらを世界の認識、つまり小宇宙としていると、まれに非常に不安に感じたり、不満や絶望を感じるでしょう。

または、これらの小宇宙について考えないようにするために、他のことをしたり、忙しくしたりするでしょう。

しかし、いくら目を背けても、それは長く続きません。

何故ならば、あなた自身の理解、つまり小宇宙の理解なくしては、明日を生きる理由が見つからないからです。

 

では、どのような方法が私たち自身、つまり小宇宙を理解するために有効でしょうか。

 

まず初めに、あなたの人生の主導権は、あなたが持っていることを知りましょう。

他の誰にもあなたの人生の主導権を渡してはなりません。

あなたの限界も、あなたの可能性も、あなたが決めていると知りましょう。

いくら周りや世界、つまり大宇宙があなたを否定しようとも、それらの認識は、小宇宙であるあなたが生み出しているのです。

あなたが生み出しているのですから、それらはあなたが変えることができますを

あなた自身が一つの宇宙なのですから、その宇宙の限界はあなたが決めるのです。

 

次に、小宇宙であるあなたは、無限であると知りましょう。

世界を観測しているのはあなたです。

あなたが寝ていたり気絶したりして意識が完全にない時や、あなたが死んだ後、あなたにとっての宇宙は消え去ります。

ということは、あなたが見ている大宇宙は、あなたという小宇宙を通してしか見ることができないのです。

つまり、あなたの見ている宇宙は、あなた自身なのです。

あなたの見ていない時、他の人の宇宙は続いていくでしょうが、それは、彼らの見ている宇宙です。

あなたの見ている宇宙ではありません。

あなたの見ている宇宙は、あなただけが見ることができ、つまり、宇宙はあなた自身なのです。

あなたは、無限なのです。

 

また、小宇宙について考え始めたあなたは、大宇宙に対して無防備です。

大宇宙を大海原、小宇宙をあなたが乗る船と考えてみましょう。

生まれたばかりの人間は、生身で大海原に浮かんでいて、大海原の波に流されるばかりです。

何か乗り物に乗れば、目的地を見つけたり、そこに向かったり出来るでしょう。

最初は誰かの船を模倣すればいいのです。

そのうち、あなたは自作の大きな船にのり、大海原を好きなように冒険するでしょう。

同じく、最初は、自分が優れていると思う人の小宇宙を真似すればいいのです。

素晴らしい生き方だと思えば、真似すればいいのです。

いずれは、あなただけの、あなたが作った小宇宙で、世界を冒険します。

 

最後に、大宇宙で目に見えるもの全ての可能性と、あなたが望む未来を考えることは、あなた自身の可能性と未来を考えることと同じだと知りましょう。

大宇宙とあなたは同一なのですから、あなたが目に見える何かを傷つければ、あなた自身が傷つくし、あなたが宇宙の可能性が低いと思えば、あなた自身の可能性も低くなります。

どんなに嫌いな人でも、どんなに嫌いなものでも、それは、あなたの一部なのです。

嫌う気持ちや拒絶心は、対象ではなく、あなたの内側にあるのです。

ですから、目に入る物全ての無限可能性と、その可能性が実現した明るい未来を考えてみましょう。

そうすれば、あなた自身の可能性と未来も、無限となるのです。

さあ、無限の冒険に出かけましょう。

「自分」という幻想

苦しみの原因は無知です。

 

そして、自分という存在しないものを存在すると思えば、矛盾故に苦しみます。

 

「そんな馬鹿な、自分は存在するぞ」と思う人も、この機会に一緒に考えてみましょう。

 

まずはあなた、つまりあなたからみて自分を、あなたの体の中に探してみましょう。

 

あなたはどこに居るでしょうか。

腕の中でしょうか。足の中でしょうか。でも、手足がなくても生きている人はいるので、違いそうですね

では、胴体でしょうか。頭でしょうか。脳でしょうか。内臓でしょうか。心臓でしょうか。

もしそうだとすると、どの部分があなたでしょうか。

残念ながら、あなたの体は、どの部分を見ても、毎日新しいものと入れ替わり続けており、「この部分があなただ」と言えるような、いわば「本体」と言える部分はありません。

 

「そんなことは信じない。」

という人は、別の方法で考えてみましょう。

植物や動物はいつか死にますが、もし仮に、彼らに「本体」と呼べるような不変の部分があるならば、死後もその部分は残り続けるはずです。

しかし、どの動植物を観察しても、そのような「本体」と呼べるような部分を死後見つけることができません。

 

本当に、「自分」というものは、探してもどこにも見つけることは出来ないのです。

 

見つけることができるのは、五感と顕在意識(心の意識できる働き)と潜在意識(記憶や反射などの、意識できない心の働き)を持つ、集合体だけです。

 

しかも、この集合体ですら、五感と顕在意識と潜在意識の集まりにすぎず、「本体」は存在しないのです。

 

これは、自転車というものは、車輪とハンドルとサドルとネジなどの部品の組み合わせで、自転車というもの自身が存在していないのと同じことです。

 

では何故、我々はこのような存在しない「自分」に皆囚われるのでしょうか。

 

これは実は我々が日頃用いる言語に原因があるのです。

 

まず、我々は、家族や会社などのグループという社会の中で、誰かを指定するために「名前」を用います。

 

または、会話の中で誰の話をしているか明らかにするために、「僕は…」「私は…」「自分は…」と、主語として、声を出している人間、つまり「自分」を指定するのです。

 

つまり、グループの中で、作業や会話を円滑に進めるために、ある意味仮定として、「名前」や「自分」として個人を設定するのです。

 

このような習慣を続けているうちに、いつのまにかその指定したものが本当に存在すると勘違いしてしまうのです。

 

では、どれだけあなたが「自分」に囚われているか考えてみましょう。

 

・夢の中の主観はあなた自身ですか

・日々の目標の主語はあなた自身ですか

例)自分の年収◯◯円にする。

例)自分が欲しい、◯◯を手に入れる。

 

両方とも答えが「はい」なら、あなたはかなり自我を信じていることになり、存在していないものに囚われる矛盾故に、苦しむ可能性が高いと言えます。

 

この囚われを減らす方法は、

・「自分」とは幻想だと確信する

・「自分」を主語とする欲望を減らす

などがあります。

 

実は、欲望は、存在しない「自分」があるという思い込みを加速させるものであり、主語を自分とする欲望に囚われるほど、「自分」があると、無根拠で確信しやすくなるのです。

会話における執着の外し方

釈尊の偉大な説法の一つに、「苦の原因は執着である」と言うものがあります。

 

自分自身、法則、過去、記憶、他人、所有物、名声、勝ち負け、などに執着するので、苦を感じる、ということです。

 

この説法が正しいと仮定すると、執着を減らすことで、苦を減らすことができるということになります。

 

我々の生活で執着が発生するのは、主に

(1)煩悩習慣

(2)言語習慣

となります。

 

(1)の煩悩習慣は単純で、日々の生活で習慣的に生じる欲望のことです。

 

例えば、美味しい物を食べたいという欲が生じれば、美味しいものを食べて快感を感じている自分に執着してしまい、それが満たされない場合、不満、嫉妬などの苦痛を感じます。

 

例えば、人に好かれたい、褒められたい、よく思われたいという欲が生じれば、人に好かれている、褒められている自分の状況に執着してしまい、不満、嫉妬、などの苦痛を感じます。

 

しかし、これらの欲が生じなければ、執着を起こすこともなく、苦痛は生じません。

 

(2)の言語習慣は、普段の言語の使い方、言語に対する理解のことです。

 

例えば、言語としてあるものが、実際に現実世界にあると思ってしまうことで、執着が生じます。

 

悩み、感情、運命、時間、記憶などは、顕微鏡で見たり、写真を撮ったりできないように、これらは現実には存在しません。

 

言語習慣として当たり前のように使い続けている故に、存在していると勘違いしてしまい、「自分の感情が好きじゃ無い」「自分は良くない運命だ」「過去を後悔している」などの、存在していないことについて考えてしまいます。

 

そもそも、「自分」というものも、存在しておらず、あるのは体という頭や手足や内臓等の集まりと名前ぐらいで、それらの集まりに「自分」と名付けているだけなのです。

 

日常会話、つまり言語習慣で使っているうちに、それらを実在すると思い、執着し、もちろん実在しないので、執着により問題が生じ、苦痛を感じます。

無限に価値があるあなた

言語は何も実際のことを表す事ができない。

 

例えば、目の前のリンゴを見て、リンゴがあるとする。

しかし、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、体の感覚が無くなれば、リンゴがあるとは言えなくなる。

是非、五感と記憶以外でリンゴを認識する方法を考えてもらいたい。

これは、不可能であるとわかると思う。

では、リンゴがあるとは、五感と記憶があると言うことだったのか。

何か物があるとは、変わらずにあると言うことのはずであり、変わってしまえば、あるとは言えない。

にも関わらず、川があると言った際に、その時見た水分子は流れて無いのにも関わらず、同じ川が目の前にあると思ってしまうように、人は、連続するものに、仮の名前を与えて、実際には違うものを、同じものとして扱うということを無意識にしてしまう、いわば錯覚に、常に囚われている。

同じく、五感と記憶の組み合わせ出会ったリンゴは、五感と記憶は川のように変化していくので、錯覚として、同じリンゴが見えるだけで、リンゴが存在しているとは言えない。

これを人間の無明性(何も確実に知ることができない)という。

 

次に、「この発言は誤りである」と言ってみる。

その時、あなたは絶対矛盾に陥る。

何故なら、上の発言が正しいなら、上の発言は誤りとなり、矛盾する。

上の発言が誤りなら、上の発言も正しいとなり、矛盾する。

これを、空性(排中律が成り立たないので、何も確実でない)という。

 

故に、言語を理由として行う自己肯定は、論理的には常に失敗する。

例えば、自分は◯◯だからすごい。

自分は◯◯をするのですごい。

自分は◯◯を持つのですごい。

これらは全部、自己肯定に失敗してしまう。

 

この原因は、人間の無明性(何も確実に知る事ができない)と、そのことによる世界の空性(何も確実でない)である。

 

故に、無明性と空性をもとに考えると、世界は、全ての部分に依存していて、全ての部分は、世界に依存していて、全ての部分は、他の全ての部分に依存していると言う事である。

故に、あなたの存在価値は無限である。

 

何故ならば、あなたがいなければ世界はなく、他の全ての部分も存在しないから。

 

あなたがいなくなれば世界とそこに属する全ての部分が存在しなくなるので、世界と、あなた以外の全ての部分にとって、あなたはかけがえのないものなのです。

世界は有限とすると、終わりと始まりが存在することになり、始まりがあるならば、その始まりの原因が存在することになり、その始まりの原因の原因を考えると、無限に拡張されるので、世界は無限である。

世界は無限なので、その存在を支えるあなたの価値は無限ということになる。

 

このように、条件付きの自己肯定は人間と言葉の不完全性によってうまくいかないので、逆にその不完全性を利用して、無条件の自己存在肯定を考えてみたのである。

 

本稿があなたの人生に、ひいては世界に何か影響を及ぼすことを祈る。

 

〈参考〉

『中論』龍樹

矛盾するあなた

あなたの存在する確率はどれぐらいでしょうか。

 

私は今この記事を読んでいるから100%だ、ということではなくて、無からあなたが生まれて存在する可能性のことです。

しかも、今あなたがいるその場所、その状況で。

 

まず、あなたが生まれる確率を考えましょう。

 

あなたの父親の一度の射精により放出される精子の数は約3億個であり、この時点であなたの存在確率は、約300000000分の1ということになります。

 

次に、あなたの二人の両親を人類から選んでみると、1950年にはすでに人類の総人口は25億人であったので、あなたの両親二人から生まれた、あなたは、25億人いる内の2人の組み合わせから産まれたのでした。

 

この時点で、あなたの生まれる確率は、3億粒の米が入った箱を25億箱集めた内から、2粒を選ぶよりも少ないことになります。

 

既にあなたが生まれたことは、奇跡的と言えるでしょう。

 

さらに、あなたがその時代、その日、その時間、その場所で生まれた確率は、もっと低くなります。

 

次に、私たちの住むこの世界が生まれる確率を考えて見ましょう。

 

銀河や宇宙の始まりについては、確定したことを言うのは難しいので、ここからは少し別の視点で見てみます。

 

宇宙やこの世界の始まりを考えた時、何故、もしくはどうして、を考えた時、「宇宙にははじめもおわりもなく無限に続く」と考えるか、「宇宙は無から始まった」と考える二つの考え方があります。

 

最初宇宙に何かあったとしても、その何かはどこから生まれたのかと考えれば、無限に同じ質問が可能です。

 

つまり、無以外から宇宙から始まった場合は、はじめもおわりもなく無限に宇宙が続いています。

 

ビッグバン仮説が正しいとしても、何故ビッグバンが起こったのかを考えると、その前にも何かがあった、つまり無限に続く宇宙が存在していたか、何もなかった、つまり無があったかのどちらかとなります。

 

「宇宙にははじめもおわりもなく無限に続く」と考えてみると、あなたの存在は文字通り奇跡です。

 

何故なら現在の時間を考えるとあなたの存在確率は、無限分の1となり、0です。

 

あなたは存在することが不可能なのに、存在しているのですから、奇跡としか言えません。

 

もしくは、矛盾です。

 

存在自体矛盾しているので、何が起こっても不思議ではありません。

 

何故なら、あなたの存在する事自体が上記で見たように論理的には矛盾しているのですから、あなたに論理を超えた事が起こっても何も不思議ではありません。

 

次に「宇宙は無から始まった」と考えてみます。

 

何もない無があったとします。

 

 

 

何もないです。

 

宇宙はもちろん、時間も空間も何もかも存在しません。

 

ここから、何かが生じることなど、あり得るのでしょうか。

 

論理的には不可能です。

 

しかし、論理を超えて、確率を超えたところでは、何が起こるかわからないのです。

 

実際に、我々の宇宙は我々の目の前に広がっています。

 

これは、おかしいというよりも、この世界の本質がこのような我々自身には、少なくとも言葉では計り知れないおかしさで出来ているということでしょう。

 

このように、あなたの生きる宇宙と、あなた自身は、確率的には不可能で、論理的には矛盾しているので、存在する事自体が奇跡で不可能で不思議なわけです。

 

そんな世界で、人生で、あなたはどう生きるでしょうか。

 

あなたは何を悩んでいるでしょうか。

 

何に苦しむでしょうか。

 

何が不可能でしょうか。

 

もともとこの世界自体が矛盾で不可能で奇跡なのに。

 

あなたの存在自体が奇跡なのに。

 

本来存在する可能性のないあなたがいるということは、あなたには何か存在する意味があるという事でしょう。

 

その根拠は、上記で見てきました。

 

全世界、または全宇宙が、あなたの存在を求めているのです。

 

そして、同じような考え方で、この世に存在するすべてのものの存在が、矛盾で、不可能で、不思議です。

 

あなたの目の前に広がる全ての物事の存在が、論理を超えており、確率的に不可能で論理的に矛盾です。

 

そんな世界で、悩む必要はあるでしょうか。

 

あなたも、あなたを包む世界も、存在自体が論理や確率は超えているので、限界はありません。

 

可能性は無限大です。

 

そんな世界で、絶望する必要があるでしょうか。

 

こんな論理が成り立ってしまう世界、宇宙が、そしてその中であなたが存在しているということ自体が、いつもあなたの存在すべてを肯定しています。

 

あなたに存在して欲しいと、全宇宙が告げています。

 

無限の未来が、あなたを待ち受けています。

新しい健康論

現代において健康は、フィジカルとスピリチュアルの両方で考える必要があります。

頭の中の考えが、体に影響を及ぼすことが分子生物学的に明らかになってきているからです。

といっても難しいことではなく、緊張すれば筋肉がこわばり汗をかく、ストレスでおなかが痛くなり耳鳴りがする、興奮で息が荒くなり痛みを感じなくなるなど、日常で当たり前に経験していることからもわかると思います。

この記事では、そのことを軸に、現代の健康法について考えてみます。

 

フィジカル

まずはフィジカルです。

ここでは、主に睡眠、運動、食事について考えます。

睡眠ですが、注目すべきはサイクルと刺激です。

まず、睡眠時間は、目覚ましなしで起きれる最短の時間にしてください。

短すぎても長すぎてもだめです。

そして、サイクルを一定にすることを心がけてください。

重要なのは、寝る時間帯ではなく周期です。

寝るのは昼でも夜でも構いませんが、同じ時間に起きて、同じ時間に寝ることを心がけます。

 

次に刺激ですが、これは刺激を受けることと消すこと両方が重要です。

まず、起床時には、たくさんの日光を浴びましょう。

体の大部分の血管である毛細血管が特に多い、ひじやひざ関節のうらに浴びることが重要です。

そして、寝るときはなるべく刺激を遮断しましょう。

光は何も見えないほど暗いのが望ましいです。

都会では意図的にしないと難しいかもしれません。

 

運動については、二つ提案があります。

といっても、基本は全身の細胞を均等にゆすることです。

一つ目は、極微振動です。

足を肩幅に広げて立ち、その場でブルブルと揺れます。

高速で縄跳びをしているような感覚です。

二つ目は、クリエイティブウォークです。

歩くときに、できるだけやったことのない動きで歩きます。

はじめてつかう筋肉を使うような動きで歩きます。

この時大事なのが、できるだけ音を立てないことです。

これによって全身を意識することができます。

 

いずれにしても、全身の細胞を刺激することが重要なわけです。

 

最後に食事ですが、重要なことは一つだけで、自分で一から作ることを想像しながら食材を選び、食べることです。

どこで取られて、どこから運ばれて、どこで調理されたのかを全て脳内で再現しながら食べます。

逆に、脳内で再現できないものは食べてはいけません。

作り方のわかるものだけを食べるようにしてください。

これは、実は前代社会では特に重要なことなのです。

理由はたくさんありますが、一番は、世界とのつながりを感じるためです。

現代の巨大文明で生きていると、自分だけで生きているような錯覚に陥ることがありますが、実際は人はみな多くのつながりの中で生きているのです。

そのことを実感することは、社会的な人間にとって、とても重要です。

 

スピリチュアル

 

一番大事なことは、ゴールを持つことです。

とほうもない、大きなゴールです。

人は、自分より大きなもののために動くとき、とてつもない力を発揮します。

その時、体はおのずと健康になってしまうのです。

世界と匿名SNSとの健康的なつき合い方

サブタイトルは、「ピグマリオン世界観と自我の不連続性から考える、生き方」です。

聞きなれない言葉も多いと思いますが、全て解説していくため、ご安心ください。

 

 

ピグマリオン世界観とは

他の記事でも説明していますが、簡単に言うと、

「あなたの世界は、あなたが思っているとおりになる」

という世界観です。

 

名前は心理学のピグマリオン効果から拝借していて、私の造語です。

 

ピグマリオン効果とは、目の前の人は、あなたが思っている通りの人間になるというものです。

 

あなたが、目の前の人をずるい人間だと思っていると、もともとそうでなくても、その人はずるい行動をする傾向が強くなり、あなたもそのずるい行動を見つけやすくなります。

 

これは、RASという人間の認知機能の限界と、看守と囚人の実験などからわかる集団暗示現象などが複合して起こる現象だと考えられます。

 

ともかく、ピグマリオン世界観とは、すべてのものや人に対して、ピグマリオン効果が適応できるという仮定から導かれる世界観のことです。

 

自我の不連続性とは

人の細胞は、約一日ごとに細胞分裂をすることにより、生まれ変わるといまれています。

食事の質や量などを考慮したとしても、少なくとも一週間もたてば、どんな人間でも全身が別人に生まれ変わっています。

このことから考えると、後悔や、自分に対する責任の追及などは意味がないことがわかります。

他人も別人になっているわけですから、他人を批判したりすることにもあまり意味がないといえるかもしれません。

しかし、わたしたちは、人が連続した存在だと考えています。

昔話をしたり、他人の過去の失敗を追及したりすることからもわかりますね。

このような勘違いは、記憶という情報が連続していることによって起こります。

過去の記憶の一部は、脳内に情報として記録されていて、その連続性はある程度が保たれているといえるでしょう。

しかし、注意したいのが、残っているのは情報だけ、しかも一部の情報だけということです。

3年前の何気ない日に通りすがったときに見た他人の服の色を思いだせる人は少ないでしょう。

一部の情報だけが連続していて、その他は生まれ変わり別人となっている私たちにとって、自我やアイデンティティといったものは不連続であり、今の自分や他人がしていることを話題にしたり、考えたりすることは、楽しいかもしれませんが、本質的には無駄なことなのです。

 

ここで、情報の連続性を自我の連続性と認めると、例えば映画を見たときに、主人公の記憶を情報として得ているので、その主人公と自分が自我として連続ということになってしまいます。
ドラマやアニメ、小説なども同じです。
他人の話を聞いただけでも、その他人と自分が、連続する自我ということになるのです。
それを自我の連続性として認めるならば、自分の記憶が連続している場合、自我が連続しているといえるのです。

しかし、やはりそんなものを自我と呼ぶ必要がないので、情報だけが連続であっても、自我は連続であるとはいえないのです。

 

ここからもわかるように、未来の不安を消すために何かをすることや、未来の見返りを求めてやりたくないことをすることも、かなり無駄と言えるでしょう。

少なくとも、数か月以上先の何かを期待して今から嫌なことをしたりするのは、数か月後の生まれかわった自分という名の他人のために、今ここにいる他人でない自分を犠牲にすることになります。

 

日本の社会構造で見えてくる、匿名SNSとの不適合

日本は古くから、村的実名保障集団です。

つまり、親せきや隣人などのネットワークを通じて、その人間が安全かどうかを確認しているのです。

「Aさんのせがれ」「Bさんの旦那」「隣に住むCさん」

などです。

 

幾重にも張り巡らされた人脈のネットワークにより確証された身元が明確な人々たちと、ともに何十年も過ごすという環境の中で日本語は進化してきました。

 

そんな日本語の特徴は、責任感や安全性を、自分にも他人にも強く求めるものになっていたとしても、不思議ではないでしょう。

 

日本人は、周りの人を良い人だと思い、自分をよく見せる文化で育ってきたということです。

婉曲表現の多さや敬語や丁寧語の存在は、そのことを表しているといえるでしょう。

 

そんな村的実名保障集団で育った日本人と日本語は、無意識の本音をさらすことにも、さらされることにも、不慣れといえるでしょう。

 

匿名SNSや匿名送受信可能なメディアは、日本人の無意識にとって、不健康です。

 

匿名メディアをできるだけ避け、世界はすばらしいと思いながら、自分に正直に、見返りを求めずにやりたいことだけをして生きる。

 

ピグマリオン世界観から言えることは、世界が残酷でひどい場所だと思えば、そのようになってしまいます。

なので、世界は素晴らしく、美しい場所だと思い、自分には何とも比べられない価値があり、明日が楽しみだと確信しながら生きることが健康的と言えます。

 

また、自我の不連続性から、見返りを求めた行動は、ほぼすべて無駄と言えます。

なので、今楽しくて、今やりたいことをするのが、健康的と言えます。

また、日本語の特徴から言えることは、匿名の文章や、だれが作ったのかわからない責任の所在が不明な動画、画像などは見ることをやめましょう。

 

以上が、現代を健康的にいきるための世界との付き合い方です。

 

この世界が、少しでもより良い場所になるように願います。